10 · アメリカ合衆国 · 建造 1886年

自由の女神像

フランスからの贈り物で、数百の木箱に分解されてニューヨークへ運ばれた。

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物語

マディソン・スクエア・パークの台座に置かれたトーチを持つ右腕

6年もの間、自由の女神像を見たいと思ったら、人々はマンハッタンのマディソン・スクエア・パークへ足を運んだ。像全体ではなく、トーチを掲げた右腕だけが公園中央の台座に展示されていたのである。胴体や頭部がパリの工房で槌打ち成形されている最中のことであった。少額の料金を支払えば、内部の梯子を登って炎の周囲のバルコニーに立つことができた。これは台座建設の資金集めのための展示であったが、目標額には遠く及ばず、腕は再び木箱の中へと戻された。

この贈り物はフランス発祥であった。法学者のエドゥアール・ド・ラブライエが、アメリカ独立100周年を記念してフランス国民からの記念碑を提案した。彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディが制作を引き受け、彼にはすでに構想があった。数年前にスエズ運河の入り口にランタンを掲げた巨大な女性像を提案してエジプト総督に断られており、ニューヨークはその修正案を受け取った形となった。

最大の工学的難問はその外皮であった。像の高さは46メートルあるが、表面の銅板の厚さはわずか約2.4ミリメートル(硬貨2枚分)しかない。これほど薄い金属の殻は自立できない。バルトルディの最初の主任技師ヴィオレ=ル=デュクが1879年に他界すると、エッフェル塔の建設を10年後に控えたギュスターヴ・エッフェルが設計を引き継いだ。エッフェルは内部に鉄骨の鉄塔を組み、無数の柔軟な鉄製ストラップで銅板を吊り下げる構造を考案した。これにより、強風や熱膨張に対しても外皮が破断することなくしなやかに動くことが可能となった。

1885年:214個の木箱を積んだイゼール号がニューヨークの埠頭に着岸する様子

像は1885年6月、フランス海軍のフリゲート艦イゼール号に乗せられ、214個の木箱に分割されてニューヨーク港に到着した。しかし島の大理石台座は資金難で工事が中断していた。ニューヨークの富裕層は関心を示さず、連邦議会は拠出を拒否した。そこで新聞王ジョセフ・ピューリッツァーが自身の新聞『ニューヨーク・ワールド』紙上で大規模な募金キャンペーンを展開し、どんなに少額でも寄付者全員の名前を紙面に掲載すると約束した。12万人以上の一般市民が寄付を寄せ(大半が1ドル未満)、わずか5ヶ月で10万ドル以上が集まった。台座は完成し、1886年10月28日に除幕式が行われた。当時の像は生まれたての新しい1セント硬貨のような赤銅色に輝いていた。今日おなじみの緑青(酸化皮膜)は、その後の歳月を経て現れたものである。

1916年:湾の向こうで起きたブラック・トムの大爆発が像を揺らす様子

1916年7月30日の深夜、ニュージャージー側のブラック・トム島にあった軍需物資集積所が、連合国向け補給を妨害するドイツの破壊工作によって大爆発を起こした。爆風が女神像を激しく揺さぶり、無数の破片が右腕とトーチを直撃して深刻な損傷を与えた。この夜以来、トーチ部分への観光客の立ち入りは完全に禁止され、今日に至るまで再開されていない。現在像が掲げているトーチは、1984〜86年の大修復の際に金箔で覆われて新調された複製であり、オリジナルのトーチは2019年に開館した島の博物館に展示されている。

その大修復では内部骨格も全面的に刷新された。鉄と銅の間の絶縁材が経年劣化し、異種金属接触腐食(電食)が進んでいたため、外側の銅板を保ったまま内部の鉄製ストラップが1本ずつすべてステンレス鋼へと交換された。

多くの人が見落としがちな二つのディテールがある。足元には引きちぎられた足枷と鎖が横たわり、奴隷制の廃止を象徴している。そして左手に抱えた銘板には、独立宣言の日付「JULY IV MDCCLXXVI」がローマ数字で刻まれている。1984年にユネスコ世界遺産に登録された自由の女神像は、今も世界中の自由と希望の不滅の象徴としてニューヨーク湾に立ち続けている。

所在地

New York
アメリカ合衆国

Liberty Island, New York, NY 10004

40.6892, -74.0445